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0340341

思想としての『突然ヒロイン』――革命とVR性

読み物

最初にご忠告

 この文書には暴論が含まれています。

 ドラマの内容にかこつけて、ああだこうだこじつけを言っています。

 あくまでネタだと思ってください。まあ、ネタとしては、くだらんものですが。

 作品を貶める意図も、その他否定的な意図も全くありませんが、ネタや曲解がどうしてもだめな方は、ここでお帰りください。

 

 簡単にいえば、「『突然ヒロイン』って、ヒロイン転校してこなかった方が平和だったんじゃない?」って話をしています。

 そこから更に、「ヒロインの転校って革命と同じじゃないか」という話もしています。

 

↑無理そうだなと思ったら帰ってください。

 

 勘違いしないでいただきたいのですが、私は『突然ヒロイン』という作品も、その世界観や設定、キャストその他すべて好きです。

 

 しかし気が確かじゃない人間が書いています。気が確かなあなたは、気が確かなうちにブラウザバック。

 

 ちゃんと読んでいただければわかると思いますが、この文書は、筆者の思想信条を明らかにするものでも、特定の主義・思想の是非を評価するものではありません。あくまでこういう捉え方もできるよな、という話です。

 

 

 以下は、筆者が掲示板の独り言スレに書き込んだ内容を補筆修正して収録したものである。

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ヒロインはクラスの災いか

 突然ヒロイン本編を見ていて思ったことだが、生配信のお知らせを見て改めて思ったことを書き残しておく。

 

 ドラマの各エピソードは、それぞれがパラレルワールドとなっている。

 あるエピソードでは、他のエピソードにおける「ヒロインが来なかった世界」が描かれている。

 つまり、エピソードを比較することで、「ヒロインが来た世界」と「ヒロインが来なかった世界」との差分を見ることができるのである。

 

 実際に全エピソードを通して視聴すると、実は「来なかった世界」の方が平和だったんじゃないかと思えてくる。

 「ヒロインが来た世界」の方は、ライバルとヒロインとでギスギスしているが、「来なかった世界」だと、そのライバルと王子が比較的いい感じだったりする。

 例えば奈々は、エピソード1以外では割と平和的だ。ひなたと廉が接近さえしなければ、ああはならなかったのである。また、ヒロインが来なければ、あゆみと丈も良好な関係が続いただろうし、あんずが豹変することもなく、クララ達3人の関係は微妙な均衡を保ち続けただろう。

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ヒロインの転校、即ち革命

 プレーヤー操作型のゲームというのは得てしてそういうもので、特にVR作品で顕著であるが、アバターを介してそのその世界の中に入り込んで、その世界に何らかの干渉をするというのが常である。

 VR作品で顕著、と言ったのは、現実のプレイヤーの感ずる没入感の強さと、ゲーム内におけるプレイヤーないしアバター行動における自由度の高さの為である。

 革命を「外部による既存秩序の破壊」と位置づければ、これらは「プレイヤー(及び、彼の操作するアバター)という外部による、ゲーム世界の革命」であるといえる。

 

 『突然ヒロイン』もまた、革命にあたるだろう。

 このドラマの仕組みと、VRゲームとは類似している。ヒロインは、予め行動が決められず、状況に応じて自由な意思で行動する。まさにゲームのプレイヤーと同じである。彼女自身をアバターとして、世界を体験するのである。周囲のクラスメイト達は、予め設定を帯び、基本的な行動をプログラムされたCPUである。

 ヒロインも、ゲームのプレイヤーも、仮想世界の中で、唯一現実の人物であるという点で共通している。

 

 『突然ヒロイン』における革命とはつまり、「現実世界から転校してきたヒロインという外部による、広音中学という幻想空間に対する革命」である。

 ヒロインはこの作品において革命主体なのであり、そのライバルは、反革命の主体なのである。

 

 冒頭で指摘したように、「ヒロインが来なかった世界」は、「ヒロインが来た世界」よりも調和のとれたものであったが、ヒロイン(=外部性)が来たことにより、その秩序は崩壊してしまう。

 『突然ヒロイン』は、ヒロイン本人を主語として、「突然ヒロインになる」という意味で捉えられるが、幻想空間(広音中学)内の当事者からすれば、「突然ヒロインが来た」ということになる。

 勿論、『突然ヒロイン』はそのようなことは意図していないし、生臭い革命とは程遠い平和的で素朴な作品なのだが、思想的には、そう捉えることも可能なのである。

 

 革命による混乱、危険性については、エドマンド・バークが『フランス革命の省察』で、オルテガ・イ・ガセットが『大衆の叛逆』で、それぞれ指摘した通りであろう。

 「ヒロインの転校」を革命としてとらえれば、冒頭で指摘したように「ヒロインが来なかった世界」の方が平和であるというのも頷ける。

 

 とはいえ、ヒロインは本当にこのことを望んでいたのだろうか。

 勝手に「世界」に放り込まれて巻き込まれたのなら溜まったものではない。

 事実、全てのエピソードでヒロインは、自らが王子にアプローチしたのではなく、王子からアプローチされている。つまり、ヒロインは一貫して受動的であり、「秩序の崩壊」は、所与のものだったともいえる。

 

 しかし、ヒロインを、「現実の視聴者のヒロイン願望を仮託されたVRゲームのプレイヤー」と解釈すれば、むしろ目的達成(ヒロイン体験)の為の「革命」を能動的に行なっているとも言える。

 このことは、主題歌である『ヒロイン願望 暴走中』が良く表している。願望が暴走したとき、それは革命となるのである。

 「ヤバめな試練」も、「毎日ハラハラするような青春」も、望むところなのだ。

 ヒロインと、彼女に仮託した視聴者が「ヒロインになりたい」と願った時点で、こうなることは決まってしまうのである。願望した時点で、加害者側になる。

 大衆はパン屋の破壊そのものを目的としたのではなく、パンを得ることを目的として、パン屋を破壊したのである。だからと言って、大衆がパン屋を破壊した加害者たることを免れることはないのである。

 

 VRという言葉は二面性を帯びている。プレイヤーからすれば、現実から仮想空間に没入することであるが、仮想空間側からすれば、現実という外部からの来訪者が出現することである。

 仮想世界においてプレイヤーは、「仮想世界の住人」ではなく、「仮想世界の中にある“現実”」なのである。

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