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突然ヒロイン本編を見ていて思ったことだが、生配信のお知らせを見て改めて思ったことを書き残しておく。
ドラマの各エピソードは、それぞれがパラレルワールドとなっており、あるエピソードでは、他のエピソードにおける「ヒロインが来なかった世界」が描かれている。つまり、エピソードを比較することで、「ヒロインが来た世界」と「ヒロインが来なかった世界」との差分を見ることができる。実際、前エピソードを通して視聴すると、実は「来なかった世界」の方が平和だったんじゃないかと思えてくる。
「ヒロインが来た世界」の方は、ライバルとヒロインとでギスギスしているが、「来なかった世界」だと、そのライバルと王子が比較的いい感じだったりする。
プレーヤー操作型のゲームというのは得てしてそういうもので、特にVR作品で顕著であるが、アバターを介してそのその世界の中に入り込んで、その世界に何らかの干渉をするというのが常である。革命を外部による既存秩序の破壊と位置づければ、これらは「プレイヤーという外部による、ゲーム世界の革命」であるといえる。
突然ヒロインもまた、革命にあたる。つまり、「現実世界から転校してきたヒロインという外部による、広音中学という幻想空間に対する革命」である。
冒頭で指摘したように、「ヒロインが来なかった世界」は、「ヒロインが来た世界」よりも調和のとれたものであったが、ヒロイン(=外部性)が来たことにより、その秩序は崩壊してしまう。
『突然ヒロイン』は、ヒロイン本人を主語として、「突然ヒロインになる」という意味でとらえられるが、幻想空間(広音中学)内の当事者からすれば、「突然ヒロインが来た」ということになる。
ヒロインはこの作品において革命主体なのであり、そのライバルは、反革命の主体なのである。
勿論、『突然ヒロイン』はそのようなことは意図していないし、生臭い革命とは程遠い平和的で素朴な作品なのだが、思想的にはそう捉えることも可能なのである。
革命の混乱、危険性については、エドマンド・バークのが『フランス革命の省察』で、オルテガ・イ・ガセットが『大衆の叛逆』で指摘したとおりである。
「ヒロインの転校」を革命としてとらえれば、冒頭で指摘したように「ヒロインが来なかった世界」の方が平和であるというのも頷ける。
とはいえ、ヒロインは本当にこのことを望んでいたのだろうか。勝手に「世界」に放り込まれて巻き込まれたのなら溜まったものではない。しかし、ヒロインを、「現実の視聴者のヒロイン願望を仮託されたVRゲームのプレイヤー」と解釈すれば、むしろ目的達成(ヒロイン体験)の為の「革命」を能動的に行なっているとも言える。
このことは、主題歌である『ヒロイン願望 暴走中』が良く表している。願望が暴走したとき、それは革命となるのである。「ヤバめな試練」も、「毎日ハラハラするような青春」も、望むところなのだ。
VRという言葉は二面性を帯びている。プレイヤーからすれば、現実から仮想空間に没入することであるが、仮想空間側からすれば、現実という外部からの来訪者が出現することである。
仮想世界においてプレイヤーは、「仮想世界の住人」ではなく、「仮想世界の中にある“現実”」なのである。